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岩井照芳の歴史研究
ブログ紹介
奈良時代の恭仁京の復元研究や、
古代の大河川港「泉津」の研究、
また泉津から平城京への道(上津道・中津道・下津道)の
復元研究、
中世では山城国No1の広さを誇る鹿背山(かせやま)城の研究、
明治維新期の奈良興福寺の神仏分離・廃仏毀釈の研究(奈良公園は興福寺の境内地)等々
歴史の講演会や見学会の情報発信をいたします。
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2015年9月26日(土)歴史講演会「ふれあい文化講座」開催します。

2015/09/21 19:05
第79回 ふれあい文化講座を開催します。

演題    演 題   「 地域の宝を測る技術 」  講 師    金田 明大 先生
(奈良文化財研究所主任研究員)

        演 題   「 古代のハイウェイ 」    講 師   近江 俊秀 先生(文化庁文化財調査官)


場所  :  京都府木津川市 木津中央交流会館

時間  :  2015年9月26日(土) 午後1時30分〜4時30分

その他 :  参加料無料

問合せ先:  木津川市教育委員会文化財保護室

主催  :  木津の文化財と緑を守る会  木津川市  


この「ふれあい文化講座」が始まるきっかけは

http://nararekisikan.at.webry.info/201509/article_5.html

↑こちらをご覧ください


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▽念願の国指定史跡 めどついた

2015/09/21 13:19
2015年07月08日 朝日新聞に記事を載せていただきました

http://www.asahi.com/area/kyoto/articles/MTW20150708270140001.html

▽念願の国指定史跡 めどついた



 中世の山城(やまじろ)「鹿背山(かせやま)城跡」が、木津川市内で発見されたのは36年前である。近世の大坂城などとは違い天守閣も石垣もない土造りの城である。築城時期は不明だが、城主は大和一国と相楽郡を支配した興福寺。最後の城主は松永弾正(だんじょう)久秀と考えられる。



 当時この城は木や竹に覆われ、荒れ放題の山だった。城の勉強をするうちに、規模は山城国で一番を誇り、竪堀(たてぼり)・土塁(どるい)・畝状(うねじょう)空堀群や堀切(ほりきり)と多彩な防御施設がそろい、遺構の保存状態も良好な文化財的価値が高いものとわかった。



 まったく無名なこの城を「世に出し、国指定の史跡にしたい」との思いが募り、「守る会」がボランティアで整備を始めたのは15年前である。



 まず竹や木の伐採から始めた。次にルート板を設置し、橋を架け、城を解説をした案内板を立て、「鹿背山城跡」と墨書した高さ2メートルの木の碑も建立した。



 整備が進むにつれNHKでも放映され、専門誌にも載り、見学者も増えた。入山ノートには「遺構は分かりやすく適度に緑を残したほどよい整備。守る会に感謝」。新潟県からの見学者の感想だった。



 6年前には、木津川市も国史跡指定に必要な発掘調査に着手。そして今年3月の発掘調査委員会でのこと。最近文化庁の調査官が来られ、現地を見学。「城の整備が行き届いている」との発言があり、数年内に文化庁との間で史跡指定申請(意見具申)の協議に入る旨の報告があった。



 ついに国指定史跡になるめどがついた。念願のかなう日が近付いた。



  ◇いわい・てるよし◇



 1948年、相楽郡木津町(現・木津川市)生まれ。奈良県立大学商学部卒。1978年、「木津の文化財と緑を守る会」創設。木津川市文化財保護審議会審議員。
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▽知られざる恭仁京 謎を解明 

2015/09/21 13:17
2015年06月24日 朝日新聞に記事を載せていただきました

http://www.asahi.com/area/kyoto/articles/MTW20150624270140004.html

▽知られざる恭仁京 謎を解明 



 「知らなかったなぁ。精華町まで含むとは。恭仁京(くにきょう)って加茂盆地だけだと思ってた」。加茂町瓶原(みかのはら)に大極殿跡があるために、加茂の友人の思い込みであった。



 恭仁京は日本の古代都城の中でもあまり知られていない。奈良時代中ごろの740(天平12)年、聖武天皇が平城京から今の木津川市に遷都した都である。わずか3年2カ月であったが、この間に国分寺・国分尼寺造営や墾田永年私財法などの重要な詔(みことのり)が出されている。



 恭仁京の特徴は大極殿が左京内にあり、都の中心軸上にはない。従来の都城形態と大きく逸脱している。その理由の合理的説明は誰もできずにいた。



 恭仁京研究で有名な故・足利健亮(けんりょう)京都大学教授の論文でも同様だ。その上、京の中心軸がどこか分からず、都城造営理念にも合わない復元であった。



 木津に生まれ地形を熟知していた私は、自然地形と合致しない足利説に疑問を抱き、恭仁京復元研究を始めた。32年前のことである。



 続日本紀や都城研究書を読みあさり、山野を歩き、何度も地形図と座標で計測した。その結果、恭仁京の京域は木津川市と精華町を含み、特異な都城形態である理由も解明できた。



 この研究成果は「泉津(いずみのつ)と古代都城」と「恭仁京の復元」の2論文にまとめ『古代文化』に発表。さらに古代学協会主催の古代学講座に講師として招かれ、7回に分けて講演した。



 木津川市が、実は古代、国家の華々しい中心地であったことは、大きな誇りである。今後も新しい恭仁京情報を発信していきたい。



  ◇いわい・てるよし◇



 1948年、相楽郡木津町(現・木津川市)生まれ。奈良県立大学商学部卒。1978年、「木津の文化財と緑を守る会」創設。木津川市文化財保護審議会審議員。
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▽守れた遺跡 生まれた文化講座

2015/09/21 13:15
2015年06月10日 朝日新聞に記事を載せていただきました

http://www.asahi.com/area/kyoto/articles/MTW20150624270140003.html


▽守れた遺跡 生まれた文化講座 



 「大変だ! 梅谷瓦窯(がよう)が潰され道路になる」。文化財関係の友人から突然の電話で、その危機を聞いたのは約20年前の1996年2月ごろであった。



 木津川市梅美台にある梅谷瓦窯は、その数年前、関西文化学術研究都市開発に伴う発掘調査で、奈良時代の興福寺の創建瓦を焼いた窯跡であり、窯の進化形態も分かる貴重な遺跡と判明していたので、当然保存されるものと確信していた。



 それまでにも、古墳のデパートとまで言われた瓦谷古墳群や瀬後谷瓦窯、埴輪(はにわ)窯(がま)などが潰されていた。それだけに驚愕(きょうがく)した。



 すぐに宮本裕三・木津町助役(当時)に確かめ、戸田敏彦・木津町長(同)にもこれ以上「木津の宝」を潰すべきではないと何度も直訴した。2人は「この件に関しては報告を受けていなかった」と打ち明け、「保存に向け、できるだけ努力する」との返事。この言葉を信じるしかなかった。



 一方で、興福寺の貫首と会談し、木津町長と府知事あてに至急保存要望書の提出を依頼。また府文化財保護課長にも面談し、協力を要請した。



 その数日後、突然新聞各紙に「梅谷瓦窯保存される」の記事が大きく掲載された。これまでは事前に情報が入らず潰されたこともあったが、今回は努力が報われた思いであった。



 この保存ができたのは、守る会と興福寺、木津町の三者の努力の結果であると評価し、これを記念に「ふれあい文化講座」を三者共催で行うことを提案した。第1回はこの年の8月31日に開催。今年で20年目を迎えることになる。



  ◇いわい・てるよし◇



 1948年、相楽郡木津町(現・木津川市)生まれ。奈良県立大学商学部卒。1978年、「木津の文化財と緑を守る会」創設。木津川市文化財保護審議会審議員。
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▽景観に配慮した開発 説いたが 

2015/09/21 13:14
2015年05月20日 朝日新聞に記事を載せていただきました。

http://www.asahi.com/area/kyoto/articles/MTW20150624270140002.html


▽景観に配慮した開発 説いたが 



 いま、JR木津駅の東側に目をやると何とも味気ない風景が目に入る。それは宅地開発で裾野を削られたモヒカン刈りの山と緑のない台地が広がるためだ。また恭仁京(くにきょう)の中心軸の路(みち)が通ると考えられる釜ケ谷(木津高校東側)も埋められ、歴史的景観も失われた。



 この開発方法を知ったのは1978(昭和53)年、炭本喜尚・木津町教育長を訪れた時だ。木津は宅地開発行為で、自然景観や緑地がほとんど無くなると危惧され、将来を憂えられた。



 私は奈良県風致保全課に在職した経験から、木津町の無謀と思える住宅開発計画に驚いた。奈良県は風致地区条例で景観を守っている。簡単にいえば開発する宅地を緑地で覆う方法だ。見える前面側は稜線(りょうせん)まで自然緑地を残し、裏側を開発すれば景観は保全できる。



 木津町の開発方法は、自然景観や緑地を守る配慮が乏しく、少しでも多くの宅地を供給する経済優先の手法が採られていた。



 同じ頃、奈良県のJR平城山(ならやま)駅東側の佐保台の地は風致地区のため、開発申請が出された。県は木津町からも住宅が見えないように緑地で隠す方法を指導した。おかげで今も木津からは見えない。他県でさえ木津の景観のために配慮しているのに残念な話だ。



 この経緯から会名に緑を加え、「木津の文化財と緑を守る会」として保全運動を始めた。町長に自然景観の重要性とともに、開発の方法論を何度も説いたが理解されなかった。「保全より開発が大事」の姿勢はその後も続いた。壊された自然景観は二度と元に戻らないのに。



  ◇いわい・てるよし◇



 1948年、相楽郡木津町(現・木津川市)生まれ。奈良県立大学商学部卒。78年、「木津の文化財と緑を守る会」創設。木津川市文化財保護審議会審議員。
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▽守れなかった上津遺跡 出発点 

2015/09/21 13:11
2015年04月29日 朝日新聞に記事を載せていただきました。

http://www.asahi.com/area/kyoto/articles/MTW20150624270140001.html


▽守れなかった上津遺跡 出発点 



 木津川近くにある木津町の御霊神社北側の住宅地に、自然石二つを組み合わせた大きな石碑が立っている。それには「上津(こうづ)遺跡」とある。今の私の活動の出発点となる思い出深い地だ。



 もう40年ほど前の1978(昭和53)年5月の連休に、前年度発掘調査した上津遺跡の「遺物出土展」が開かれた。見学の後「この遺跡は保存されるのですか」と聞くと「潰され建売住宅になる」との返事。



 奈良県庁で明日香や香久山などの古都保存法特別地区の用地買収の仕事に携わっていた私にとって、大事な遺跡は保存して当然との意識があり驚いた。



 すぐに友人たちに声を掛け保存運動を始めたが、年配者から「保存運動を起こすほどの価値ある遺跡か?」との疑問の声が出た。



 そこで、県庁で同僚だった菅谷文則さん(現・橿原考古学研究所長)に見解を求めると「平城京の物資の陸揚げ港として栄えた非常に重要な遺跡」と言われた。これに自信を得て同年8月13日「木津の文化財と緑を守る会」を立ち上げた。



 町長や町議会に要望書を出し住民にも訴えたが見事に失敗。建売住宅ができた。「なぜ守れなかったのか」。遺跡の価値判断すら自身で出来なければ説得力に欠けるとの反省が起きた。



 基礎知識をつけようと郷土史の勉強会が始まった。聞き取り調査や古文書探し。それが現在の歴史研究につながっていると思う。



 上津遺跡は守れなかったが、木津町はその後、遺跡の一画を買い上げ、高さ155センチもの大きな石碑を建立してくれた。保存運動のせめてもの成果であった。



  ◇いわい・てるよし◇



 1948年、相楽郡木津町(現・木津川市)生まれ。奈良県立大学商学部卒。1978年、「木津の文化財と緑を守る会」創設。木津川市文化財保護審議会審議員。

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はじめまして

2015/09/21 11:24
歴史好き?より歴史研究好きのおじさんです。


そもそものきっかけは1978年に行った奈良時代の大河川港「泉津」の保存運動からはじまりました。




それから恭仁京の復元研究、泉津の復元研究、泉津から大和の古代都城への道


上津道・中津道・下津道の復元研究をはじめ、中世城郭 鹿背山(かせやま)城の研究


奈良 興福寺の廃仏稀釈の神仏分離の研究(奈良公園は興福寺の境内地であった)等々の


講演会をはじめ、歴史情報を発信します。
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